遺失物。
2006年 10月 20日
ここのところ、いろんな文を書く気が起こらなかったのには、理由がありました。
理由っていうほど大層なものではないんだけども。
何を書いても自分がイヤになるばかり。
自分の信念は、違った視点から見るとマイナスな要素を持っている。
自分の思いは、そのマイナスを超えられない。
何を言っても、何を書いても、なんだかモヤモヤするだけだ。
自らの傲慢さ、独断と偏見と、個の限界と、そういった総てに向き合わなくてはならない。
わかっては、いるはずなんだけど。
それは、常に、そういうものだ、と。
ヒトはそういう生き物なのだと。
先日、改めて思ったことがあった。
「他人にやさしく」
と。
最近の私は、まったくできていないのだ。
以前なら、脊髄反射でやっていたようなオセッカイが、できていない。
一体いつから自分はこんな風になってしまったのだ、と気づいて愕然とした。
多分、ここ1年くらいの変化だろう。
しかし、なぜ?
失くしたモノを取り戻すため、私は探し歩いた。
すると、辿り着いた場所には。
自分に厳しくあれ。
無知は罪なり。
自己判断、自己責任。
そんな言葉ばかりが漂っていた。
それは正しいのだけど、あたたかくはなかった。
荒涼とした場所に感じた。
いや、これはこれで良いのだ。
でも、これだけじゃ足りない。
きっと、この奥に手がかりがあるんじゃないか。
私は四角い言葉たちを払いのけながら、前に進んだ。
チェシャ猫が半透明ににやついていた。
「お前はそんなに、わけ知りかね?」
いや、私は無知だ。
持っている知識なんて、ほんの一握だ。
そして、人類の持てる知識だってタカが知れている。
「お前は失敗をしないかね。」
いや。ヘマばっかりだ。
あれこれ忘れたり、間違えたりの繰り返しだ。
「では、お前には何が必要か。」
チェシャ猫はニヤケ顔を上下さかさまにした。今はハッキリとした実態だ。
知らないことを教えてくれる誰か、何か。
忘れたことを思い出させてくれる誰か、何か。
間違いを指摘してくれる誰か、何か。
間違いを許してくれる誰か、何か。
すると、扉が開いた。
扉の向こうには鏡があった。
自分に厳しくした分を、他人にも求めていなかったか?
自分が知らないことは、教えてほしいと思うだろう。
もちろん、自分で調べたり考えたりしたほうが良いだろうけど、タイミングってものがある。
知らないほうが悪い、きちんと調べないほうが悪い、学ばないほうが悪い、自己責任だ。
そんな風に考えていたら、「やさしさ」はどんどん逃げていく。
「あるべき姿」は、自分だけのものだ。
他人に厳しくして、どうする。
ましてや、自分だって「あるべき姿」を実現できていないではないか。
個の限界を知り、お互いを補い合う。許しあう。
それは誰でもできることのはずだ。
気づきさえ、すれば。
ただ、気づこうと思わなければ、気づけないのだ。永遠に。これはすべてに関して言える。
そして、気づければそれで良いってものでもない。
人の価値は、思想で決まるんじゃない。どう行動するかで決まる。
実行あるのみ、なんである。
理由っていうほど大層なものではないんだけども。
何を書いても自分がイヤになるばかり。
自分の信念は、違った視点から見るとマイナスな要素を持っている。
自分の思いは、そのマイナスを超えられない。
何を言っても、何を書いても、なんだかモヤモヤするだけだ。
自らの傲慢さ、独断と偏見と、個の限界と、そういった総てに向き合わなくてはならない。
わかっては、いるはずなんだけど。
それは、常に、そういうものだ、と。
ヒトはそういう生き物なのだと。
先日、改めて思ったことがあった。
「他人にやさしく」
と。
最近の私は、まったくできていないのだ。
以前なら、脊髄反射でやっていたようなオセッカイが、できていない。
一体いつから自分はこんな風になってしまったのだ、と気づいて愕然とした。
多分、ここ1年くらいの変化だろう。
しかし、なぜ?
失くしたモノを取り戻すため、私は探し歩いた。
すると、辿り着いた場所には。
自分に厳しくあれ。
無知は罪なり。
自己判断、自己責任。
そんな言葉ばかりが漂っていた。
それは正しいのだけど、あたたかくはなかった。
荒涼とした場所に感じた。
いや、これはこれで良いのだ。
でも、これだけじゃ足りない。
きっと、この奥に手がかりがあるんじゃないか。
私は四角い言葉たちを払いのけながら、前に進んだ。
チェシャ猫が半透明ににやついていた。
「お前はそんなに、わけ知りかね?」
いや、私は無知だ。
持っている知識なんて、ほんの一握だ。
そして、人類の持てる知識だってタカが知れている。
「お前は失敗をしないかね。」
いや。ヘマばっかりだ。
あれこれ忘れたり、間違えたりの繰り返しだ。
「では、お前には何が必要か。」
チェシャ猫はニヤケ顔を上下さかさまにした。今はハッキリとした実態だ。
知らないことを教えてくれる誰か、何か。
忘れたことを思い出させてくれる誰か、何か。
間違いを指摘してくれる誰か、何か。
間違いを許してくれる誰か、何か。
すると、扉が開いた。
扉の向こうには鏡があった。
自分に厳しくした分を、他人にも求めていなかったか?
自分が知らないことは、教えてほしいと思うだろう。
もちろん、自分で調べたり考えたりしたほうが良いだろうけど、タイミングってものがある。
知らないほうが悪い、きちんと調べないほうが悪い、学ばないほうが悪い、自己責任だ。
そんな風に考えていたら、「やさしさ」はどんどん逃げていく。
「あるべき姿」は、自分だけのものだ。
他人に厳しくして、どうする。
ましてや、自分だって「あるべき姿」を実現できていないではないか。
個の限界を知り、お互いを補い合う。許しあう。
それは誰でもできることのはずだ。
気づきさえ、すれば。
ただ、気づこうと思わなければ、気づけないのだ。永遠に。これはすべてに関して言える。
そして、気づければそれで良いってものでもない。
人の価値は、思想で決まるんじゃない。どう行動するかで決まる。
実行あるのみ、なんである。
by neko-dama
| 2006-10-20 06:47
| 猫的哲学