日々の身繕いでイツノマニカ体内に生成される毛玉のハナシ


by neko-dama
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カテゴリ:猫的哲学( 40 )

われ おもう。

我 思う 故に 我あり。

ていうのは、つまり。
自分て実在するのかしら、と自分の存在を疑っている、
その疑っている思いというのは、確かに存在するのだなぁ。
という、どうでもいい呟きなわけですが。

哲学者ってのは、そんなんだ。

高尚なわけでもなんでもない。
回りくどいから理解し辛いけど。

最近気に入った言葉が、
『神とは人類最大の創造物である』
とかなんとか。

一神教の人々にとっては、神は偉大で触れられぬものだろう。
でも、ギリシャ・ローマ神話やらヒンズーの神々、日本の八百万の神々を見ると、
とても身近。
身近で、日常で、怒らせると怖い。
つまり天災。
こちらが意図しなくても、勝手に立腹して罰をくらう。理不尽なこともよくある。

神、という概念が好きだ。
それはまさに自然だから。
ままならない相手の掌中に生きる、ということを自覚させてくれる。

だから、実在などと言い出さないように。
神がおわすから我が存在するのではなく、我が神を思うから神が存在するのだ。
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by neko-dama | 2008-05-23 10:13 | 猫的哲学
実家を出るとき、家電やらなにやら一式揃えた。
必需品リストには「新しいドレッサー」。

実家、と言っても、兄との二人暮らしだったが。
ほとんど接点のない、ただひとつ屋根の下に寝起きしているだけの兄妹暮らし。

母はナンというか、若い頃はトンでる女だったという。
確かに昔の写真はえらい美人さんだし、派手な雰囲気。
モデルや女優のはしくれだった時期もあった。
結婚して子供ができて、それは落ち着いたのだろうけど。
でも父の甲斐性のなさに諦めまじりに離婚した。

「ヒトは良いんだけどねぇ。実際問題、暮らしていけなかった。」

稼ぎがないってわけでなく、設計士として大金を稼いでいたのにお金は右から左だった。
まさに湯水。
友人にピアノを買ってあげたりとかね。
そんなんだから、借金とか不払いとかで追いかけられたりして。

そうして離婚して、働き始めた。
私が小学校1年生のときには離婚が成立していた。
その頃の記憶は、ほとんどない。
私の記憶は小学校3年ぐらいから、やっと朧に輪郭が見える程度。

まずは保険の外交員として成功した。
明るくて、美人で、話もうまい。頭も良い。そのうちに中間管理職にもなった。
ちょうど世の中はバブルの夢の中。
難しいと言われた大口の契約もこなした。
(でもその成功は上司に横取りされて、報償金も評判も上司が独り占め。泣いていた。)

きっちり稼げるようになるまでは、夜はホステスをしていた。
昼も夜も働いて、私たち子供はほったらかし。
でも私たちはそれで納得していた。生きていくために。

まぁ、そんな母ですが。
「オンナとして生まれたからにはオンナらしく」
というポリシーがあるようでして。
娘である私にも、オンナらしくね、綺麗にしてなさいね、と小さい頃から言い続けた。

その結果。
私は極端に、着飾ることを恥ずかしがる娘になった。
どのぐらい極端かっっていうと、中学生の頃は髪を束ねるのも恥ずかしかった。
ボサボサのまま家を出て、登校途中に鏡もなしに邪魔な前髪を結んでいた。
そりゃぁみっともないチャ~ンみたいな髪型でいた。
母の前で鏡を見るのも、髪を弄るのも恥ずかしくて出来なかった故だ。
たぶん、大げさな反応をされるのがイヤだったのだろうと思う。

小学校時代は男の子とばかり遊んで、空き地に秘密基地を作ったり、線路わきの叢探検隊だのやっていた。
兄ともよく公園や近所のガソリンスタンドで遊んでいた。

およそオンナらしくなかった。

それでも中学生にあがると、なんとなく男子vs女子みたいな構図があって。
男子と遊ぶことはなくなった。

中学2年で転校してからは、少し身だしなみに気を使うようになった。
母が留守がちだったせいもあるし、
引越した新しいマンションでは自分の部屋がもらえたってことも大きかったのだろう。

高校1年のときだったと思う。
私の部屋に、小さな白い安っぽいドレッサーが出現したのは。
ドレッサー。鏡台。

「あんたももう年頃だから。オンナの必需品よ。」
と言いながら母はニコニコしていた。

母には母のドレッサーがある。
三面鏡で、3段引き出しがついた、大きくて、白を基調に渋い木目の枠がついた、素敵なドレッサー。
金具は凝った意匠で、年季の入った良い色をしていた。
引き出しの取っ手が壊れているけど、それでも気に入ってずっと一緒に過ごしてきたソレ。
なんでも結婚した当初に買ってもらったモノらしく、7,8回の引越しにもかかわらず大事に使っている。今でも。

そんな成り行きで、私専用のドレッサーがあった。
10年ほど使ったろうか。
化粧合板なので端々が剥がれて、そこをビニールテープを巻いて補強してあった。
でも、実家を出るにあたって新調を決めた。

なんでそんなにドレッサーが必要なの?別にいらなくね?
と友達に言われたこともあって、その時初めて、あぁそうか、いらないんだって思った。
思ったけど、ドレッサーがある部屋というのがアタリマエだった私にとっては、
ないと落ち着かないのだ。

母の立派なドレッサーほどではなくても、気に入るものが欲しかった。
とはいえ、何かと物入りな一人暮らし準備期間。
あんまり高価なものには手が出ない。
安くて丈夫そうなもので、やわらかいデザインのものを買った。

「オンナの必需品」
と母は言ったけど。
ドレッサーに座る時間なんて1日15分ぐらいなのに。
鏡を見るだけなら洗面所に行けばいいのに。
それでも、母の教育のせいなのか、私にとっても必需品となってしまった。
引き出しの中には、オンナがたくさん詰まっている。

「オンナなんだから、綺麗にしていなくては。」
そう言っていた母も、今年62歳。
そして今でも、そう言っている。

母のドレッサーは、母の分身でもあるように思う。
毎日姿を映してきた。
若くて美しかった頃から老いてやわらかくなった今日までずっと。
たぶん明日からもずっと。そのときが来るまで、一緒なのだろう。
それは、父への思いでもあるのではないか。
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by neko-dama | 2008-05-21 13:57 | 猫的哲学

神話の楽しみ方。

世に語り継がれる神話の類は、その荒唐無稽さから子供向けと認識されることがある。
私はそうは思わない派所属。
というか、子供に話し聞かせて良いのか、と折々に疑問にすら思う。
なぜって、アレらは残酷で独善的で排他的で不条理な物語だから。

ギリシャ・ローマ神話の神々は人間を適当に弄び、
気に入った人間は星座にするなり、手元にしばらく置くなりして楽しむ。
気に入らない人間には「お前ら14へ行け」と死刑宣告。

ディオニソス(バッカス)なんてかなり酷い。
テーバイの王ペンテウスがディオニソス信仰を排斥した仕返しに、
自らの崇拝者であるペンテウスの母親を信仰の熱に狂わせ、息子の首をとらせた。
(ちなみに実はディオニソスとペンテウスは従兄弟だったりする)
ディオニソスとしては「私は神なのに、お前ら人間が馬鹿にしくさった!敬え!」
ってことらしい。

こええ。

っていうか、あんまり不条理。
ディオニソス信仰は、半裸で酒を飲みながら町を練り歩き歌い踊るという自由な校風で知られています。
この神様は、神々のなかでも奔放というのか本能に忠実というのか、つまりは「自然」を体現しているわけだ。
この神罰物語の主旨は『自然を敬え』ってことであり、自然(じねん)に生きる歓喜を排斥することの(人間の)傲慢さを戒めているものと思われる。

でも、そういう理解に及ぶまでには、その神の誕生や立場や特性・性格から、何を象徴する神なのかを導いていなければ難しいだろう。
神話を表面的に理解するのは容易いが、そこに隠された何かを発見するのは子供では難しい。
と、思う。
ただ、神々そのものが『自然』であることは理解できようから、それだけで良いのかもれない。
(ディオニソスはかなり分かりやすい例として引き合いに出したよ)

子供時代には神話の表層、情景的部分を楽しみ、
自分を取り巻く自然環境の圧倒的で気まぐれな猛威に漠然と感ずる。
子供にとっての神話は別世界、異次元であり、直接に私たちの世界と繋がってはいないのではないだろうか。

大人(どこからが大人なのかは置いといて)が神話を捉えるとき、そこは私たちの世界と陸続きだ。
神話世界の事象が私たちの世界の何に対応しているのかを読み取り、人間の不完全さを受け入れ愛することを改めて学ぶ。
この世界の在り方に身を委ね たゆたう他にはどうしようもないと嚥下し、人間のちっぽけさと懸命さを愛しまずにはいられない。
神話は、自然(宇宙)に包まれて、謙虚に必死に生きることのリマインドとなる。
大人は、神話に包み込まれた真実を感じ取ることができる。
神話世界と私たちの世界は同じ地平にあることに気づく。

それに何と言っても、現実の世界は神話と同じように、充分に残酷で独善的で排他的で不条理なのだから。
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by neko-dama | 2008-01-22 16:11 | 猫的哲学
いや、最近でもないか。もうずっと。
何がイラっとするって、とりわけこの時期に多いのよ、鬱陶しい人。

「独り身~、独りなの~、ハァ・・・」
みたいな。
や、言う相手がきちんと友達だったり、世間的なアレだからネタで言ってるとかなら
全然ウェルカムなんだけど!
誰彼かまわず、「独りぼっち」を強調するなっての。

イラっとくる?続き・・・
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by neko-dama | 2007-12-25 23:35 | 猫的哲学

簡単なことだった。

2年ぶりに美容院に行った。

2年行ってなかった。 オンナとしてどうかと思う。

私は美容院がとても苦手。
アレコレ自分のことを聞かれるのがイヤだし、
髪をさわられるのも好きじゃない。
だから、大抵自分で鏡を見ながら前髪と横くらいは切っちゃうのだ。
んでも、さすがに伸びきってしまったし大分傷んでいる。
一番の動機付けは、日曜の兄結婚式。

ネットで近所の美容院を探して、昨日夕方にふらっと入ってみた。

したらば。
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by neko-dama | 2007-10-26 11:24 | 猫的哲学
お疲れ様でした。


一昔前、私がまだ教育学に没頭していた頃。
個性を評価する教育、というのに文部省(当時)が傾倒していた時期がありました。
今は知らんけど。

いわく、生徒の熱意を評価する。
結果としての学力以外のところを数字で評価する、とかそんなの。
私はそれにはまったくもって反対でした。

熱意の評価の仕方ってなに?
いわく、授業中によく手をあげる、など。
え?だったら、手をあげられない消極的な、恥ずかしがりやの生徒は熱意がないと?
担当教員によって、まったく違う評価になるだろう。
そんな目に見えない「熱意」とやらを数値化して評価するのは、無理なんじゃない?

学力以外を数字で評価。
いわく、ボランティア参加・クラブ活動・公式大会での成績・・・そういったもの。
内申を良くするために、ボランティアをするのって、本当にボランティア?
(ボランティアしてみようってキッカケになるのは良いことかもしれないが、しっくりこない)
自発的に頑張ってきたことが結果になって、それが評価されるなら良いが。
まぁ、皆がみんな、そうではないだろうな。

そういう、特にハッキリした結果が目に見えないものを
数字にして評価すると、歪むと思うなぁ。
「個性を評価する」って、なんだそれ。何様ですか。
という思いを禁じえない。

かといって、偏差値マンセー!とはまったく思ってなくて、
学歴・学閥偏重社会の問題を卒論テーマにしたぐらい、ガッコの成績だけで判断するのが嫌い。

大事なのはさ。
子供たちに、勉強が人生のすべてではないって飲み込んでもらうことだと思う。
勉強は、やらないよりやった方が良い。
自分の人生の選択肢が増えるからね。
それに、新しい知識を得る喜びを知って欲しいとも、思う。

でも、それとこれとは違って。
勉強の結果は数字で(テストの点でも順位でも偏差値でも)表されるし、
それが今の自分なんだと受け止めることも大事だと思う。
数字を上げたければ頑張れば良いし、
ほかの事をしたければ、ほかの事を頑張れば良い。
それだけのことだ。


目に見えた結果。
それはひとつの答えだ。
そして、同じ数字でも、ヒトによって捉え方は違うよね。
「85」が高い数字か、低い数字か、まぁそんなものなのか。ヒトによって全然違う。

目に見えなかった過程や心情や熱意。
それは、自分以外のヒトにはわからないこと。
誰もが推測でモノを言うしかないこと。
そして、その推測の判断材料は、人によって違うから、人によって違う感じ方をする。
「アイツはよく頑張っていた。」
違う人に言わせれば「アイツは頑張ってるフリがうまい。要領のいいヤツだ。」となったりする。

そんなものでしょ。

自分に見えるもの・聞こえるもの・理解の及ぶ範囲内でしか、
人は物事を捉えられない。
だから、同じ質問に対する答えが一人ひとり違って良いのだ。
(数学的な答えはヒトツでも、解法が違ったり、頭の中での考え方が違うこともある)

目に見えないようなモノは、どうとでも評価できる。
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by neko-dama | 2007-05-11 23:05 | 猫的哲学

自分に恥じない。

行動の指針。

自分に恥じない決断を。

私は、結果も大事だけれど、経過・手段も大事だと思っている。
せっかく望んだ結果を手に入れても、そのために何を犠牲にしたのか、
人に嘘をついたのか、誰かを見捨てたのか、誰を傷つけたのか・・・そういったことで
自分に恥じるような決断をしたくない。

正しいとか、間違ってるとか、それはどうでもいい。

そうじゃない。
それは、言い換えれば「神はいつでも見ている」ということだ。
この場合、神は自分の美意識だ。 (良心とか、センスの意味)

望んだ結果を得られなくとも、
自分に恥じる決断を経た手段をとるよりは随分良いだろう。
事実、私は決断を後悔しない。
(ちょっとはするけどね。ニンゲンだもの。でも納得はできてる。)

残りの人生を快適に生きるために。
自分にとって「汚い手段」は、使わないようにしたい。
自分のために。
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by neko-dama | 2006-10-27 00:50 | 猫的哲学

遺失物。

ここのところ、いろんな文を書く気が起こらなかったのには、理由がありました。
理由っていうほど大層なものではないんだけども。

何を書いても自分がイヤになるばかり。

自分の信念は、違った視点から見るとマイナスな要素を持っている。
自分の思いは、そのマイナスを超えられない。
何を言っても、何を書いても、なんだかモヤモヤするだけだ。
自らの傲慢さ、独断と偏見と、個の限界と、そういった総てに向き合わなくてはならない。

わかっては、いるはずなんだけど。
それは、常に、そういうものだ、と。
ヒトはそういう生き物なのだと。

そんなことより大事なものが。
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by neko-dama | 2006-10-20 06:47 | 猫的哲学

恋人ってなんだっけ?

恋人って、どんなヒトのことを言うのだろう。

私にとって、それは。
相手を知りたい、わかりたい、相手の世界を共有したい、と思うヒトのこと。
そして、わかるために行動することが、恋人関係を築くことだと思っている。

もちろん、誰もが知っているとおり、100%分かり合う、なんてことは有り得ない。
そして、分かり合うことは、同化することとは違う。

たとえば、自分はナゼこのように考えているのかを話す。
それに同意はしなくとも、相手が「そう考えている」ということを受け入れることは可能だ。

関係を築くことは、つまりはその連続ではなかろうか。

ナゼの部分を抜かしてしまうと、わかることはできない。

なんで、そう思ったの?
こういうことがあって、こんな風に思ったから、それだったらこうだと思ったんだよ。

そういうコミュニケーションを続ける姿勢が、関係を築くのだと思う。

同じになる必要はなくて、相手と自分とを知る。
考え方が違うなら、違うんだね、どうしてだろうね、と話すと、
なるほど、と受け入れられる。

私はコウだけど、あなたはソウなんだね。

そこに辿り着くまでに、言葉を尽くすメンタリティは、恋人に対する礼儀だと思う。
どうせ分かり合えないのなら、と最初から放棄するのは、相手にひどく失礼だ。

どんなに言葉を尽くしても、伝えられるのは3割程度。
だから、何も言わなければ、伝わるのはゼロ。

この3割を伝え合う作業と、相手の世界を知ろうとすると同時に、自分の世界を知ってもらう作業。
そういう努力なくして、恋人関係など築けない。

そうでなければ、恋人ではなくて、その他大勢のヒトリに過ぎない。

分かり合えないから、サヨナラがあるんじゃない。
分かり合う努力を放棄したから、サヨナラがある。
そこに。
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by neko-dama | 2006-08-02 22:03 | 猫的哲学

野良猫考。

猫は動物である。

が、野生動物ではない。
今、家で飼われている猫や野良猫は、イエネコという種(ヤマネコの亜種)であって、
野生動物であるヤマネコとは違う。

野良猫も、人に依存して生きている。
(まったく人を必要としない野猫(ノネコ)もいるが、それは別の話だ)
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しあわせって、なんだっけ?
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by neko-dama | 2006-07-11 12:21 | 猫的哲学