ちえちゃんは、といっても彼女を“ちえちゃん”と呼んだことは数えるほどしかないが、無類のマイケル・ジャクソン好きだった。
そのために、彼女の友人は皆彼女のことを“マイケル”と呼んでいた。
私も、彼女をマイケルと呼んでいた一人だった。
マイケルは地味目の、ハキハキしてきっちりして真面目なタイプの素晴らしい人で、マイペースでいながら気遣いのできる高校生だった。
マイケルが好きだからと言って、マイケルはヒップでもホップでもガングロJKでもなく、いたって普通の高校生だった。
そんなマイケルは、マイケル・ジャクソン(MJ)の話をするときにもっとも輝く。
私も彼女が編集したMJテープをもらったことがある。
彼女の友達なら誰もが1本はもらっているのだ。
そのテープ、実は今でも持っている。
マイケル、どうしてるだろうか。
マイケル、元気出してね。
今思うと、マイケルという渾名の女子高生って奇妙だ。
でも当時はまったく妙でも何でもなく、マイケルはマイケルだった。
先ごろ亡くなったスーパースターのこと。
便利なインターネッツでMJの踊る姿をいつでも見ることができる。
体の動きのキレ、カチっとしているのに自然なダンス。
そのダンスはやはり天才と呼ぶにふさわしいと、改めて思った。
小学校高学年のいつだったか、出し物をすることになった。
『今夜はビートイット』に、なぜか私が振り付けを考えてみんなで踊った。
MJと違って普通の小学生の私達には、できる動きなんて限られていたから、みんなができる動きでの群舞だった。
この曲には体が自然に動き出すような不思議な魅力がある。
みんな大好きな曲だった。
私達の出し物のダンスは、そりゃあ酷い代物だったけど。
楽しかった。
高校の体育の授業で、先生が振り付けをしたダンスをやらねばならないことがあった。
曲はなんだったか覚えていない。
私は運動音痴なのと、振り付けを覚えられないのとで苦労して、やる気もなかった。
えーと、ここは右だっけ左だっけ?
足はどう動かすのだっけ?
足と手のばらばらな動きが全然覚えられない…。
授業は本当に苦痛だった。
その上、できていないと言われて放課後居残りまでさせられた。
先生と二人きりで、踊らされた。
半泣きで、でもやる気なくて、解放されるまで先生の言うとおりに動く努力をした。
やる気のなさというのはバッチリ伝わるもので、先生も意地になっていた。
きっと私の根性をたたき直してやろうと思っただろう。
でも、踊れない。
小学校のときのように、楽しく踊れない。
辛いだけだった。
MJを聴くと、体が動く。
難しい振り付けはできないけど、そんなのいらない。
音楽を楽しめる。
この気持ちよさは、なかなか得られない。
映画「ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発」の主題歌を歌っています。
って。
デフ・レパードかと思ったじゃんよぅ!
デフ・レパードが主題歌だったら観なくちゃ!みたいな。
だがその実態は。
体重100kg以上のメンバーで構成されたデブ・バンド。
総体重570kgの暑苦しさ。
なんじゃそりゃ。
なんじゃそりゃ。
なんじゃそりゃそりゃ。
バンド名はイギリスのメタルロックバンドのモジリ。
英米では超有名だけど、日本ではいまいち一般的じゃない。
わかる人にわかれば良いです、って感じなのかな。
デフ・レパード、大好きです。
ヒステリア、名曲。
GODS N' DEATH(ごっつあんです)
山間部に行けば綺麗な、それこそ降るような星が迎えてくれるけれど。
子供の頃に居た伊豆あたりでは、夏になると見事な天の川が横たわった。
北極星、北斗七星、大三角形、オリオン、カシオペア・・・。
南半球は、当たり前だけど、東京と違う星空が見える。
住処にしていた宿は、共同の食堂スペースがあった。
といっても、いたって粗末なもので、まるっきり外に設えてあった。
天井には何らかの板が置いてあり、雨は凌げる。トタン屋根みたいなものだった。
風が通らないよう、壁代わりに適当な幕を張ってあったけれど、風は充分に通っていった。
飾り気の無い木のテーブルと一体型の椅子。
ニュージーランドではよく見る形の、そのテーブルが4つ5つ置いてあるだけ。
大抵は皆、部屋の中のテーブルで食べていた。
(そのテーブルもやっぱり同じ、木の一体型のもの)
外の食堂は、宿が主催するBBQであったり、別の部屋の住人と一緒に食べるときであったり、
外部の人間が来たときで部屋では狭い場合などに使われた。
私は外食堂で食べることが多かった。
宿のみんなと交流しながら食べたほうが楽しかったから。
すぐそばに、みんなが使う小さな共同キッチンがあったので、キッチンの順番待ちがてら食堂でお茶を飲むこともしょっちゅうだった。
第一、晴天の昼間などは外で食べたほうが断然気持ち良い。
ある晩。
ギターを持ったオランダ人のハンスが翌朝旅立つというので、数人でお別れ夕食会をした。
最後には酒が入りすぎ、みんなほろ酔いでハンスのギターに合わせて歌った。
country roads
take me home
to the place I belong
West virginia mountain momma
take me home
country roads・・・
食堂からそれぞれ自分のドミトリーに向かう途中、夜空が綺麗だった。
ハンスも、スティーブも、キムも、タカシも、リサも、みんなで見上げた。
そこには小さな南十字星。
誰かが指をさして、故郷では見れないと言った。
私は答えて、思ったより小さくてガッカリした、と呟いた。
みんなで笑った。
誰かの部屋のドアが開いて、うるさい、もう寝ろ、と怒鳴っていた。
肩をすくめて、私たちは小さく笑い合った。
明日の晩は、ハンスはもういない。
元々、好きな歌い手さんのニューアルバムを追いかけるタイプではなかったし、
専ら休日にFMを聴きっぱなして、アラ!と思った曲を買いに行ったりしたもんだ。
中・高校生ぐらいでは、そんな財力はなかったから、FMをカセットテープに録音して繰り返し聴いた。
で、曲名や歌い手さんの名前を集中して聴き取ってメモったりした。
高校生時分ではバイトしていたこともあって、CDも買ったけど、買うのは大抵日本の歌い手さんのモノ。
浜省を中心に、山本達彦、KAN(ヒットする前は良い歌が多かったのよ)、小川範子(歌、うまかった)。
洋楽はFMでって感じだった。
あとは、友達がダビングしてくれたテープで、エイスワンダーとかボンジョヴィ、BOW WOW(日本人だが私の中では洋楽)なんかのメジャーどころもリピートしてテープが伸びるくらい聴いた。
あの頃は、テレビの歌番組によくアメリカの歌い手さんがゲスト出演していた良い時代だったと記憶している。
テレビ欄で見て気になったときは、録音の準備を怠らなかった。
大学時代には、日本の歌い手さんからは遠く離れてしまって、この頃から
「どれも同じに聞こえる」と、ババクサイことを言い始めた。
買うCDはほとんど洋楽になった。
CDを買うきっかけは、やっぱりFMが多かったけど、テレビの深夜音楽番組とか外出先の有線か何かで気になった曲を覚えておいて買うこともあった。
デフ・レパードとかファイアーハウス、エアロスミス、リッチー・コッツェンでロック欲を満たし。
アリソン・リメリック、マライア・キャリー、デニ・ハインツ、ワークシャイなんかのノリの良い女性ヴォーカルでストレス解消した。
でもすっかり音楽を聴かなくなっていた。
今の住居は好きなFM放送が入らないってのもある。
CDもたまにしかかけなくなった。聞き流さずに割とじっくり聴いている。
音楽との付き合い方が変わったんだろうな。
音楽の流れ方も時代とともに変わっている。
クリスマスにipod貰った!
せこせこと移動中なのだが、結構面倒ね。
MDやカセットにしか残ってない、お気に入りの曲を移動したいけど、どうやってPCに取り込んだら良いものやら・・・?
当面はCDから移すの、頑張りますけど。
あと、インターネットラジオ。
J-WAVEのストリーミング放送、良いねアレ。
昔、TOKIOホット100をよく聴いていたので、ああゆう感じの番組やって欲しいけど。
クリス・ペプラー大好き。(ネットラジオには出てないよ)
もうカセットしか残っていないお気に入りがあるんだけども。
ハリー・スキュアリーという日本人バンドで、全曲英語詞なの。
BOW WOW系の良いロックだったんだけど、アルバム1枚を残して解散してしまったのらしい。
そのアルバムももう廃盤だし、売ってない。
確か『break it up』ってアルバム名。今、カセット探したけど、見当たらない。どこかにあるはず。
どうにか、デジタル化して残しておきたいなーと、思ってるのだが。
追記:
と、思ったら。
再販してるじゃないですか!2005年に。
欲しい。 アマゾンした。